

その日、ジムの空気は少しざわついていた。
リングの中央では、ひときわ大柄な女性がミット打ちをしていた。短く切りそろえた黒髪、鋭い眼光、そして分厚い肩と腕。打ち込むたびに「ドンッ」「バシィッ」と空気が裂け、ミットを受けるトレーナーの体ごと揺さぶられる。
山田響子――女子最重量級のプロボクサー。
身長170cm、体重80kgを超える堂々たる体格。その迫力に、男性ジム生たちですら声を潜めて見守っていた。
体重差2倍・・・
「すげえな……男のヘビー級と変わんねえぞ」
「いや、下手したら下の階級のプロ男より強いんじゃないか?」
そんな囁きが漏れる中、僕――凛久は居心地悪くストレッチをしていた。細い腕と脚。頼りない胸板。周囲と比べてもひとまわり、いやふたまわりも小さな自分が、余計にみじめに感じられる。
「凛久くん、アップは終わった? 今日から山田さんと一緒に練習してみようか」
トレーナーの一言で、僕の背筋に冷たいものが走った。
まさか、あの人と……?
振り返った瞬間、響子の鋭い視線と目が合った。だがその口元には優しげな笑み。
「よろしくね、手加減するから安心して」
――そう言われても、全く安心できなかった。
グローブを合わせた瞬間、僕の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
相手は女子ヘビー級プロボクサー――山田響子。
身長は僕と大差ないはずなのに、横幅の厚みと肩の張り出し、腕の太さ、脚の太さ、全てが異次元だ。まるで二回り大きな生き物と向かい合っているようだった。
「ほんと軽くいくからね。リラックスして」
響子はにこやかにそう言った。
だが、彼女のグローブの影が僕に覆いかぶさるだけで、全身の筋肉が強張る。
ゴッ!
――初撃。彼女のジャブが伸びた瞬間、空気が弾け飛ぶような音が鳴った。
受け止めたはずの僕のグローブごと腕が弾き飛ばされ、胸にズシンと衝撃が走る。まるで鉄の棒で殴られたみたいだ。
「大丈夫?」
「は、はい……!」
必死にうなずいたものの、腕の中は痺れて感覚が薄い。
これで“軽く”だと? 信じられない。
二撃目、三撃目。
彼女は同じジャブをテンポ良く繰り出してくる。僕は必死に足を動かし、バックステップで距離を取ろうとする。だが一歩で彼女が踏み込んでくると、すぐにロープに詰められる。
逃げ場がない。
「せーの」
ドンッ! ボディにストレートが突き刺さる。
軽いはずの一撃なのに、肺の奥から空気が全部吐き出されるような感覚。膝が崩れ、思わずマットに片膝をついた。
「ごめんね、本気じゃないんだよ?」
「……っ、大丈夫、です……!」
悔しかった。
彼女は本当に悪意がなく、むしろ気を遣っているのに、僕はこうして簡単に沈んでしまう。
リングサイドから見ていたジム仲間の表情も、笑うに笑えない苦笑いに変わっていた。
「……マジで体格差ってレベルじゃないな」
「凛久、相手が女子でも無理だろ、これは」
小声で囁かれる言葉が耳に刺さる。
僕は立ち上がり、グローブを構え直した。呼吸が荒い。喉の奥が鉄の味でざらつく。
せめて一発でも、彼女に届かせたい――。
意を決してステップインし、右ストレートを放った。
だが。
パシッ、と軽い音を立てて彼女のグローブに弾かれる。
その直後。
ズドンッ!
反撃の左フックが僕のガードを貫き、側頭部に炸裂した。視界がぐらりと揺れ、足元の感覚が消える。ロープにすがりながら、なんとか倒れるのをこらえた。
「うわ……大丈夫!? ほんとごめん、力入れてないんだよ!」
響子は慌てて駆け寄り、僕の肩を支えた。
彼女の手は温かくて優しい。けれど、その温もりは僕の屈辱をさらに強調する。
“女に庇われている”――その現実が、胸をえぐった。
「今日はこのくらいにしとこうか」
トレーナーの声で、スパーは終わった。
僕はリングの隅で座り込み、汗と涙と唾液で顔をぐしゃぐしゃにしながら、荒い息を繰り返した。
――始まったばかりなのに、もう勝負にならない。
彼女との実力差は、あまりにも絶望的だった。
次の日、ジムに足を運ぶと、すでに山田響子はリングの上でウォームアップをしていた。
彼女の巨体は昨日と変わらず、堂々たるものだ。
だが今日は――昨日とは違う屈辱が待っていることを、僕はすぐに悟った。
「凛久くん、今日は少し長めに練習してみようか」
トレーナーの一言に、僕の胃の奥がひんやりと冷えた。
昨日の初スパーでの敗北が、まだ体中に痛みとして残っている。筋肉痛というより、心が引き裂かれたような感覚だ。
リングに上がると、響子は柔らかく笑った。
「おはよう、凛久くん。昨日はちょっとびっくりさせちゃったね」
その言葉に少しだけ心が和む――だが、グローブを合わせた瞬間にその安堵はすぐに消えた。
パシッ、パシッ――
軽く合わせるつもりのジャブが、僕の腕と胸に次々と衝撃を与える。昨日よりも少し長い時間、彼女の拳に耐え続けるだけで、体中がじわじわと痛みで満たされていく。
「うぅ……」
思わず唸り声を漏らす僕に、彼女は手を止めずに続ける。
「力は抜いていいんだよ? 本当に軽くね」
だがその“軽く”という言葉の裏にある圧力は、僕の小さな体には到底耐えられなかった。
今日は特に、ボディへの攻撃が多かった。
右フック、左フック、ストレート、時には膝の高さまで下がるボディへのパンチ。すべてが、僕の体を揺さぶる。立ち上がろうとしても、膝が震えて思うように動かない。
「もっとリラックスして!」
彼女の声が遠くで響くが、僕の頭は痛みと疲労でぼんやりしている。
それでも立ち上がり、ジャブを返そうと試みる。だが、彼女は一歩で間合いを詰め、簡単に僕の腕を押し返してしまう。
数分後、僕はとうとうロープに押し込まれたまま、膝から崩れ落ちた。
リングのマットに手をつく僕の体に、響子は軽く手を置いて支える。
「大丈夫?」
優しい声に救われるはずなのに、心は逆に締め付けられる。
“女に、こんなに簡単に倒されるなんて……”
その後も練習は続く。ミット打ち、スパーリング、ボディへのパンチ、そして軽いコンビネーション。
僕はただひたすら耐え、かわされ、マットに膝をつく。毎回、毎回、膝が折れそうになるたび、心は折れ、プライドは粉々になる。
ジム仲間たちの視線も辛辣だ。
「おい、大丈夫か? それでもボクサーかよ」
「昨日よりひどくなってるな……」
小声の言葉が耳に刺さる。けれど、響子に勝てる可能性は、微塵も感じられない。
それでも、僕は立ち上がるしかなかった。
膝をつきながら、グローブを握る手は震え、呼吸は荒く、吐き出される汗と血で顔はぐちゃぐちゃだ。
しかし、彼女の視線は優しい。
無意識のうちに、“本気を出していない”彼女の拳に何度も打ち倒される自分の惨めさを、余計に痛感する。
「大丈夫、少し休もうか」
トレーナーの声に、僕はリングの端に座り込む。
背中に響子の影が差し込み、巨大な体の圧力を感じる。
――これが、毎日の練習だ。毎日、こんな屈辱を味わいながら、僕はリングの中で耐えるしかない。
日が暮れるまで、僕は繰り返しパンチを受け、膝をつき、立ち上がる。
その間に、身体は痛みで悲鳴を上げ、心は絶望に沈む。
しかし、響子の優しさと圧倒的強さのギャップが、さらに屈辱を増幅させる。
――僕はただ、彼女の力の前で、ひたすら小さな存在であり続けるしかなかった。
次の日、ジムは普段より少し賑わっていた。
仲間たちはざわつきながらリングの周囲に集まり、スマホを手に取り、まるで観客席のような雰囲気になっている。
その中心で、山田響子はいつものように優雅にグローブをつけ、リングの上でウォームアップをしていた。
僕――凛久は、昨日の地獄のような練習の疲労がまだ体に残っている。
筋肉の痛みだけでなく、心の奥底に沈んだ絶望感も消えず、立ち上がるのもやっとだった。
しかし、トレーナーの声が僕をリングに引き戻す。
「凛久くん、今日は少し観客もいるから、練習も試合形式でやってみようか」
――試合形式?
胸の奥が締め付けられる。
僕の心はすでに崩壊寸前だったが、逃げ場はない。
リングに上がれば、昨日までの屈辱の倍以上が待っているのだ。
「よろしくお願いします……」
震える声で挨拶をする僕に、響子は軽くうなずいた。
「大丈夫、力は抜いていいから」
その言葉が、逆に恐怖を増幅させる。
ゴングが鳴り、最初のジャブが飛ぶ。
昨日までの練習ではまだ立ち上がれたが、今日は違った。
響子の拳が胸を貫き、僕は一歩も動けずに後退する。
観客席の仲間たちが息を呑む音が聞こえる。
「ちょっ、ちょっと……!」
言葉にならない叫びが口から漏れる。だが、響子のフックが僕の顔を襲い、声も遮られた。
膝がマットに触れ、頭がくらりと揺れる。
リングのライトが眩しく、観客の顔は遠く霞む。
――僕はまた、倒れるのか。
数発のパンチを耐え、必死に立ち上がる。
しかし、響子は容赦なくコンビネーションを続ける。
ボディ、ストレート、アッパー、左右のフック――すべてが僕を狙い、僕の小さな体を叩き潰す。
「ごめん、力は抜いてるんだけど……」
響子は心配そうに声をかける。だがその拳の威力は、僕をマットに押し付けるには十分すぎる。
ついに最後の一撃。
左ストレートが顎を捕らえた瞬間、意識が真っ白になり、体がリングのマットに沈む。
――KO。
観客席の仲間たちから失笑とため息が漏れる。
「……まじか、あれで試合じゃないのか……」
「可哀想に、完璧にやられたな……」
僕は唇を噛みしめ、血の味と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、マットに顔を押し付ける。
立ち上がる力も、心の余裕もない。
ただ、響子の影が大きく覆いかぶさるのを感じるだけだった。
彼女は手を差し伸べ、僕をゆっくりと引き起こす。
「大丈夫? 本当に力抜いてるだけなんだよ?」
優しい声だ。しかし、心の中の屈辱感は消えない。
“女に、これほどまでに簡単に叩きのめされる自分――”
その日の練習はこれで終了となった。
僕は膝をついたまま、リングの隅で肩を震わせ、荒い息を吐き出す。
仲間たちは無言で、あるいはため息と共に、僕の惨めさを見守っていた。
響子の存在は、ただのトレーナーや相手ではない。
僕の全てのプライドを粉々にし、日常に溶け込む屈辱そのものだった。
そして僕は、今日もまた、彼女の圧倒的な力の前で、小さくなって耐えるしかなかった。
――最重量級・山田響子。
この名は、僕の心に深く刻まれ、決して忘れられない日々の象徴となるのだった。
ジムに足を踏み入れるたび、僕の胸は締め付けられる。
リングの上には、いつものように山田響子が立ち、僕を待ち構えている。
「今日もよろしくね、凛久くん」
にこやかな声に、心臓は飛び跳ねる。
だがその視線の奥に潜む圧力を、僕は昨日までの経験で痛いほど知っていた。
一試合目
ゴングと同時に、彼女は一歩で間合いを詰めた。
左ジャブ――僕は避ける間もなく、腰を折られ、膝からマットに崩れ落ちる。
右ストレートが顎を捕らえた瞬間、意識は一瞬で途切れ、時計を見るとわずか12秒。
僕はただ、リングの上で茫然とするしかなかった。
二試合目(翌日)
練習の合間、疲労が残る僕に、またも試合形式を強いられる。
15秒以内に、左フック一発でダウン、続く右ストレートでKO。
時間はわずか10秒。
観客の仲間たちも驚き、思わず息をのむ。
「もう立ち上がれねえだろ……」
耳に入るのは同情と失笑。だが僕の心には、無力感しか残らない。
三試合目(数日後)
響子は微笑みながら、いつも通りリングに誘う。
ゴングが鳴るや否や、左ジャブが僕の顔面を捉え、続く右フックがボディに。
膝が折れ、マットに膝をついた瞬間、すでに意識は半分飛んでいる。
時計を見ると15秒ギリギリでKO。
立ち上がる力すら、もはや残っていない。
数週間の連戦
日々の練習はすべて、短時間での絶望的な試合の連続となった。
15秒以内に、1発か2発でKO。
僕は立ち上がる前に倒され、リングのマットにへたり込み、体も心もボロボロにされた。
その間、響子は決して手加減をしているわけではない。
しかし、意図的に“全力ではない”その攻撃でも、僕には十分すぎた。
――女の体に、これほどまでに簡単に叩きのめされる日々。
観客席の仲間たちは、毎回同じ光景を目にして、ため息をつくか、失笑するだけ。
僕のプライドも、希望も、毎回15秒で粉々にされる。
膝をつき、リングの端で息を整える僕に、響子は微笑みながら手を差し伸べる。
「大丈夫、また次も軽くいこうね」
優しい声なのに、絶望感は増すばかりだ。
こうして、数週間にわたる短時間KOの連戦は続く。
僕はリングの上で、ただ耐え、倒され、立ち上がるしかなかった。
日常は、屈辱と無力感で満たされていく。
――僕の名前は、響子の圧倒的強さの前で、無力に刻まれるだけだった。