第一章 ― 崩れる音 ―

第一章 ― 崩れる音 ―

会場が静まり返った瞬間の音を、俺はまだ覚えている。


歓声でも、ブーイングでもない。


ただ、空気が一段階、冷えたような沈黙。


「……違う」


口の中で、そう呟いた。






違うはずだった。


マット中央で押さえ込まれているのは、長谷川咲良だった。


うちのエース。
俺が勝手に誇りにしていた存在。


相手は無名のクラブ所属――榊原澪。


聞いたこともない名前。


部活に入らず、外で練習しているらしい女。


“普通に勝ったよ”


後日、廊下でその言葉を聞いたとき、俺の中で何かが軋んだ。


普通?


あれは偶然だろう。
咲良が調子を落としていただけだ。
クラブの選手が、名門の主力に勝てるわけがない。


俺は必死に理由を探した。


だが本当は分かっていた。


あの動き。
あの重心。
あの無駄のなさ。


偶然ではない。


俺はそれを認めたくなかっただけだ。


なぜなら――


俺は、咲良より弱いからだ。


もし澪が本当に強いのなら、
俺の立場はどこにある?


部活でやってきた意味は?


“環境が整っているから強いだけ”


俺がずっと言い訳にしてきた理屈が、
あの一戦で全部崩れた。


それが怖かった。


だから挑発に乗った。


力で証明すればいい。


男である俺が勝てば、全部元通りになる。


そう思った。


いや、そう思いたかった。


道場


澪の道場は静かだった。


木の匂いがした。


彼女はただ立っていた。


制服の時とは違う。


肩の線。
首の安定。
足裏の沈み。


戦う身体だった。


「訂正、力でさせる?」


軽い声だった。


でも目は、笑っていなかった。


俺はうなずいた。


負けるとは思っていなかった。


崩壊の始まり


最初のタックル。


かわされた。


二度目。


背後を取られた。


三度目。


読まれていた。


俺は攻撃しているつもりで、
ずっと誘導されていた。


点差は広がる。


呼吸が荒くなる。


だが苦しいのは肺ではない。


頭だった。


“なんでだ?”


“女だぞ?”


“クラブだぞ?”


その思考が、技術より先に俺を遅らせる。


二本目。


俺は慎重になった。


だが慎重さは迷いだった。


足を取られ、崩され、回される。


そして仰向け。


見上げた天井は、やけに遠かった。


「これ、咲良にやった形と同じだよ」


その一言で、俺の中の最後の支柱が折れた。


身体はまだ動こうとしていた。


だが心が、拒否した。


認めてしまえば、全部終わる。


だがもう、逃げ道はなかった。


カウントが進む。


俺は、抗わなかった。


いや、抗えなかった。


敗北の正体


負けた瞬間、俺は怒らなかった。


代わりに、静かだった。


悔しさはある。


だがそれ以上にあったのは――


安堵だった。


言い訳が、全部なくなった。


男女差も。
部活とクラブの差も。
環境の差も。


ただ、実力。


それだけ。


俺は弱かった。


その事実が、初めて輪郭を持った。


澪は俺を見下ろしていなかった。


ただ、測っていた。


俺の限界を。


「まだやる?」


俺はうなずいた。


勝つためではない。


崩れた自分を、確認するために。


変化


三本連続で負けた。


だが三本目の終わり、俺は笑っていた。


初めて、純粋に強さを見た。


それは、恐怖でも屈辱でもなく。


指標だった。


俺が目を背け続けてきた現実。


澪は敵ではなかった。


鏡だった。


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