

午前三時。
まだ眠れない。
暗闇の中で、俺は目を開けたまま横になっている。
澪に投げられた瞬間の浮遊感が、何度も蘇る。
あの一瞬。
自分の体が、自分のものじゃなくなった感覚。
空中で、完全に制御を失った。
――あれが、本当の差だ。
力負けじゃない。
技負けでもない。
“理解度”の差。
俺は戦っていたつもりだった。
でも澪は、戦いを組み立てていた。
俺は感情で動き、
彼女は構造で動いた。
そこに、取り返しのつかない距離があった。
布団から起き上がる。
机の前に座る。
手のひらを見る。
今日、あの手は何をした?
怒鳴った。
言い訳した。
場外を主張した。
そして、何もできなかった。
「だせぇ…」
声に出すと、胸が痛くなる。
咲良の姿が浮かぶ。
あの日の彼女は、最後まで抗っていた。
俺はどうだ?
途中から、勝ちたいんじゃなかった。
負けを否定したかっただけだ。
勝つ努力より、負けの理由探しに必死だった。
だから、弱い。
自分の腹を触る。
鍛えていないわけじゃない。
でも、覚悟が違う。
俺は“負けない程度”を目指していた。
澪は“勝つ前提”で動いていた。
差はそこだ。
努力の量じゃない。
前提の違い。
俺はずっと、逃げ道を残していた。
「本気じゃなかったし」
その一言で、自分を守れるように。
でも今日、それが通用しなかった。
本気でやっても負けたら?
その恐怖を、俺はずっと避けていた。
だから、どこかでセーブしていた。
だから、強くなれなかった。
鏡を見る。
目が赤い。
「お前、ずっと半端だったな」
部活でも。
咲良への気持ちも。
強さへの向き合い方も。
全部、途中で止めてきた。
傷つかない程度に。
惨めにならない程度に。
今日、それが全部露呈した。
澪は何も暴かなかった。
でも、全部見透かされた気がする。
あの冷静な目。
怒りもない。
軽蔑もない。
ただ――
「足りない」と言われた気がした。
胸がざわつく。
悔しいのに、逃げたい。
強くなりたいのに、怖い。
本気でやって、それでも届かなかったら?
それはもう、言い訳できない。
自分の限界が確定する。
それが怖い。
だから俺は、今日まで本気にならなかった。
今日、初めて気づいた。
俺は強くなりたいんじゃなかった。
負けない場所に立ちたかっただけだ。
それは、強さじゃない。
保身だ。
机の引き出しを開ける。
大会のパンフレット。
咲良の名前。
澪の名前。
準優勝。
その事実が、じわじわと胸を削る。
俺は出場すらできなかった。
校内予選で落ちた。
そこから、何も変えなかった。
澪は外で積み重ねていた。
俺は内で愚痴を積んでいた。
差がつかないわけがない。
「……情けねぇ」
喉の奥が詰まる。
涙じゃない。
ただ、認めたくない感情が詰まっている。
俺は弱い。
そして、弱いままでいいと思っていた。
本当に情けないのは、そこだ。
夜明け前。
窓の外がわずかに白む。
逃げるのは簡単だ。
「合わなかった」と言えばいい。
「部活と違うし」と言えばいい。
でもそれは、また同じ繰り返しだ。
このままなら、一生“中の中”で終わる。
安全圏の人生。
言い訳の人生。
それが一番嫌だと、今は思っている。
でも怖い。
本気で向き合うのが。
澪の前に立つのが。
もう一度、あの差を突きつけられるのが。
それでも。
それでも、逃げたら終わる。
「どうせ負けるなら」
呟きかけて、止まる。

違う。
“どうせ”じゃない。
勝ちたい。
言い訳なしで。
逃げ道なしで。
初めて、本当にそう思った。
夜が明ける。
目は重い。
心はもっと重い。
だが、その重さは逃避じゃない。
覚悟の重さだ。
自己嫌悪は消えない。
だがそれは、必要な痛みだ。
幻想が剥がれた跡。
本物のスタート地点。