第三章 ― 剥がれていくもの ―

第三章 ― 剥がれていくもの ―

午前三時。


まだ眠れない。


暗闇の中で、俺は目を開けたまま横になっている。


澪に投げられた瞬間の浮遊感が、何度も蘇る。


あの一瞬。


自分の体が、自分のものじゃなくなった感覚。


空中で、完全に制御を失った。


――あれが、本当の差だ。


力負けじゃない。


技負けでもない。


“理解度”の差。


俺は戦っていたつもりだった。


でも澪は、戦いを組み立てていた。


俺は感情で動き、
彼女は構造で動いた。


そこに、取り返しのつかない距離があった。


布団から起き上がる。


机の前に座る。


手のひらを見る。


今日、あの手は何をした?


怒鳴った。


言い訳した。


場外を主張した。


そして、何もできなかった。


「だせぇ…」


声に出すと、胸が痛くなる。


咲良の姿が浮かぶ。


あの日の彼女は、最後まで抗っていた。


俺はどうだ?


途中から、勝ちたいんじゃなかった。


負けを否定したかっただけだ。


勝つ努力より、負けの理由探しに必死だった。


だから、弱い。


自分の腹を触る。


鍛えていないわけじゃない。


でも、覚悟が違う。


俺は“負けない程度”を目指していた。


澪は“勝つ前提”で動いていた。


差はそこだ。


努力の量じゃない。


前提の違い。


俺はずっと、逃げ道を残していた。


「本気じゃなかったし」


その一言で、自分を守れるように。


でも今日、それが通用しなかった。


本気でやっても負けたら?


その恐怖を、俺はずっと避けていた。


だから、どこかでセーブしていた。


だから、強くなれなかった。


鏡を見る。


目が赤い。


「お前、ずっと半端だったな」


部活でも。


咲良への気持ちも。


強さへの向き合い方も。


全部、途中で止めてきた。


傷つかない程度に。


惨めにならない程度に。


今日、それが全部露呈した。


澪は何も暴かなかった。


でも、全部見透かされた気がする。


あの冷静な目。


怒りもない。


軽蔑もない。


ただ――


「足りない」と言われた気がした。


胸がざわつく。


悔しいのに、逃げたい。


強くなりたいのに、怖い。


本気でやって、それでも届かなかったら?


それはもう、言い訳できない。


自分の限界が確定する。


それが怖い。


だから俺は、今日まで本気にならなかった。


今日、初めて気づいた。


俺は強くなりたいんじゃなかった。


負けない場所に立ちたかっただけだ。


それは、強さじゃない。


保身だ。


机の引き出しを開ける。


大会のパンフレット。


咲良の名前。


澪の名前。


準優勝。


その事実が、じわじわと胸を削る。


俺は出場すらできなかった。


校内予選で落ちた。


そこから、何も変えなかった。


澪は外で積み重ねていた。


俺は内で愚痴を積んでいた。


差がつかないわけがない。


「……情けねぇ」


喉の奥が詰まる。


涙じゃない。


ただ、認めたくない感情が詰まっている。


俺は弱い。


そして、弱いままでいいと思っていた。


本当に情けないのは、そこだ。


夜明け前。


窓の外がわずかに白む。


逃げるのは簡単だ。


「合わなかった」と言えばいい。


「部活と違うし」と言えばいい。


でもそれは、また同じ繰り返しだ。


このままなら、一生“中の中”で終わる。


安全圏の人生。


言い訳の人生。


それが一番嫌だと、今は思っている。


でも怖い。


本気で向き合うのが。


澪の前に立つのが。


もう一度、あの差を突きつけられるのが。


それでも。


それでも、逃げたら終わる。


「どうせ負けるなら」


呟きかけて、止まる。



違う。


“どうせ”じゃない。


勝ちたい。


言い訳なしで。


逃げ道なしで。


初めて、本当にそう思った。


夜が明ける。


目は重い。


心はもっと重い。


だが、その重さは逃避じゃない。


覚悟の重さだ。


自己嫌悪は消えない。


だがそれは、必要な痛みだ。


幻想が剥がれた跡。


本物のスタート地点。




今が旬の作品