

帰宅した瞬間、家が妙に静かに感じた。
いつもと同じはずなのに。
母親のテレビの音も、風呂の湯が張られる音も、
どこか遠い。
自室のドアを閉めると、ようやく現実が追いついた。
制服を脱ぐ。
シャツを脱ぐ。
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、ただの高校生だった。
「……弱いな」

声に出すと、逃げ場がなくなる。
マットの感触が蘇る。
足を取られた瞬間の重心の崩れ。
背後を奪われたときの視界の歪み。
仰向けにされたときの天井。
そして――
澪の視線。
見下しではなかった。
軽蔑でもなかった。
ただ、冷静。
まるで計算式を解くような目だった。
俺は怒りを探す。
「女に負けた」
その言葉を何度も頭の中で繰り返す。
だが、うまく燃えない。
理由は分かっている。
“女だから”負けたわけじゃない。
単純に、技術と判断力と身体操作の差だった。
俺は力任せだった。
澪は構造だった。
ベッドに倒れ込む。
天井を見つめる。
試合を再生する。
一回目のタックル。
焦り。
雑さ。
呼吸の乱れ。
「全部読まれてた」
あれは反応じゃない。
準備だった。
俺が動く前から、澪は動いていた。
俺は自分を“中の中”と評していた。
でも本当は違う。
俺は努力の量で誤魔化していただけだ。
本気で向き合っていなかった。
環境のせいにして。
朝練がないから。
家が遠いから。
器具がないから。
そう言って、自分を守っていた。
澪は何も言わなかった。
でもあの試合が、全部否定した。
言い訳ごと。
咲良の顔が浮かぶ。
マットに沈んだ姿。
悔しそうだった。
だが逃げてはいなかった。
俺はどうだ?
俺は怒鳴った。
理屈をこねた。
場外を主張した。
あれは、情けなかった。
「俺の方が、弱いな」
強さは技術だけじゃない。
負け方にも出る。
澪は俺を潰した。
だが、壊してはいない。
壊れたのは、自分の中の幻想だ。
机の上のレスリングシューズを見る。
今日まで、それは“部活の象徴”だった。
でも今は違う。
あれは、問いだ。
本気でやるのか?
それとも、また言い訳を探すのか?
胸がざわつく。
悔しい。
だが同時に、奇妙な高揚がある。
自分より明確に強い存在を、初めて見た。
それは敗北なのに、なぜか希望にも似ている。
「……もう一回」
勝ちたい、ではない。
理解したい。
あの強さの構造を。
あの冷静さの正体を。
布団に入っても、眠れない。
暗闇の中で、澪の声が蘇る。
“まだやる?”
あれは挑発ではなかった。
確認だった。
俺は頷いた。
あれは、プライドではない。
選択だった。
深夜。
ようやく理解する。
今日、俺は負けた。
だが同時に、
逃げる自分にも負けた。
だから今、ここから先は――
選び直せる。
天井を見つめたまま、小さく呟く。
「逃げない」
誰に聞かせるでもなく。
初めて、自分に言った。