第二章 ― 敗北の夜 ―

第二章 ― 敗北の夜 ―

帰宅した瞬間、家が妙に静かに感じた。


いつもと同じはずなのに。


母親のテレビの音も、風呂の湯が張られる音も、
どこか遠い。


自室のドアを閉めると、ようやく現実が追いついた。


制服を脱ぐ。


シャツを脱ぐ。


鏡の前に立つ。


そこにいるのは、ただの高校生だった。


「……弱いな」



声に出すと、逃げ場がなくなる。


マットの感触が蘇る。


足を取られた瞬間の重心の崩れ。


背後を奪われたときの視界の歪み。


仰向けにされたときの天井。


そして――


澪の視線。


見下しではなかった。


軽蔑でもなかった。


ただ、冷静。


まるで計算式を解くような目だった。


俺は怒りを探す。


「女に負けた」


その言葉を何度も頭の中で繰り返す。


だが、うまく燃えない。


理由は分かっている。


“女だから”負けたわけじゃない。


単純に、技術と判断力と身体操作の差だった。


俺は力任せだった。


澪は構造だった。


ベッドに倒れ込む。


天井を見つめる。


試合を再生する。


一回目のタックル。


焦り。


雑さ。


呼吸の乱れ。


「全部読まれてた」


あれは反応じゃない。


準備だった。


俺が動く前から、澪は動いていた。


俺は自分を“中の中”と評していた。


でも本当は違う。


俺は努力の量で誤魔化していただけだ。


本気で向き合っていなかった。


環境のせいにして。


朝練がないから。


家が遠いから。


器具がないから。


そう言って、自分を守っていた。


澪は何も言わなかった。


でもあの試合が、全部否定した。


言い訳ごと。


咲良の顔が浮かぶ。


マットに沈んだ姿。


悔しそうだった。


だが逃げてはいなかった。


俺はどうだ?


俺は怒鳴った。


理屈をこねた。


場外を主張した。


あれは、情けなかった。


「俺の方が、弱いな」


強さは技術だけじゃない。


負け方にも出る。


澪は俺を潰した。


だが、壊してはいない。


壊れたのは、自分の中の幻想だ。


机の上のレスリングシューズを見る。


今日まで、それは“部活の象徴”だった。


でも今は違う。


あれは、問いだ。


本気でやるのか?


それとも、また言い訳を探すのか?


胸がざわつく。


悔しい。


だが同時に、奇妙な高揚がある。


自分より明確に強い存在を、初めて見た。


それは敗北なのに、なぜか希望にも似ている。


「……もう一回」


勝ちたい、ではない。


理解したい。


あの強さの構造を。


あの冷静さの正体を。


布団に入っても、眠れない。


暗闇の中で、澪の声が蘇る。


“まだやる?”


あれは挑発ではなかった。


確認だった。


俺は頷いた。


あれは、プライドではない。


選択だった。


深夜。


ようやく理解する。


今日、俺は負けた。


だが同時に、


逃げる自分にも負けた。


だから今、ここから先は――


選び直せる。


天井を見つめたまま、小さく呟く。


「逃げない」


誰に聞かせるでもなく。


初めて、自分に言った。



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